自分らしさを模索していくことの価値:吃音者としての立場から
おはようございます! アサダネのよしさんです!
僕には「吃音」という言語障害があり、このヒトとはもう12年も一緒にいます。
今日は、生きにくさを感じている人や、どう自分らしくあるべきなのかを悩み、必死に模索し続けている
そんなあなたの力になれればいいなとおもいます。
生い立ち
生い立ちというほど、大げさなものではないですが、簡単に自己紹介しますね。
ぼくは、2001年の12月に雪の降る日に生まれました。
おぎゃあと産声を上げたんですね!
家族は両親とおばあちゃん、それに兄、ぼくの五人暮らしでした。
両親の離婚、そして
僕が中学一年生の時、両親が離婚しました。
それを僕と兄は、まあ仕方ないかくらいに思っていたんです。
父と母との間にある、溝のようなものを僕達兄弟は感じ取っていたからですね。
ただ表面上はそうみえても、やはり思春期のもろい心には深いダメージがあったのでしょう。
その頃から僕には吃音の症状が出始めました。
ひどいコンプレックスでした。
ぼくはどんどん内向的になり、
自分以外の世界を見せてくれるあらゆる媒体に触れ、またそれらを愛するようになりました。
音楽、詩、小説、映画、絵画
これらの世界に没頭することで、自分では得られない体験に夢中になりました。
また憧れを自身と同化させてゆくことで、本来の自分ではない
「影」のようなものを創り出し、それを武器に現実世界で静かに戦いました。
高校卒業後
そんな感じで、高校までをなんとか乗り切り、大学へ進学します。
大学受験は、家の経済状況てきに私立の滑り止めは受けられませんでしたから
センター試験(当時)をうけ、なんとなく行ける大学へ進学しました。
「吃音をもった自分」と向き合わずに
「理想の自分」ばかり見ていたため、当時から夢や人生の行き先を特に考えることはしませんでした。
また、それまでの吃音による恥ずかしい経験や、自己肯定感を下げるトラウマもあってか
「ふつう」の会社に入って「ふつう」に働くなんて無理だろうなという
諦めの気持ちが次第に大きくなっていきます。
やはり今回もかと泣く
大学に入り、新しい環境への期待感はありながらも
やはり不安はつきまといます
自己紹介、オンラインでの授業、新しい同級生や教授たちへの説明
また吃音を理解してくれるかと悩むと、すでに自分が間違った道へ入り込んだ気になりました
案の定、自己紹介や、各授業でのグループワーク、出席確認の返事などで吃音は重荷となり
僕はついに号泣して、母に電話を掛け、死にたいと告げます
翌日、心配した母がわざわざアパートまで来てくれて、やつれた僕をあたたかく慰めてくれました
金銭のやりくりも大変なのに、大学まで進学させてくれた母
僕が追い詰められた時も心配してくれた母
感謝で頭が上がらないのですが、
またもや迷惑をかけてしまいます。
それは
心が折れてしまい、、
大学を一年もたたずに中退しました。
せっかく進学させてもらったのに、すぐやめてしまったことで
申し訳なさと、弱い自分の情けなさ、不甲斐なさに
完全に心が折れてしまいました。
そして何度か命を絶とうと試みましたが、幸運にも今、生きています
生きる道
地元に戻ってからは再び現実逃避の一環として
アートや音楽に浸りました
しかし、今まで楽しんできたときとは違い
完全に心が一度砕けてしまったことで、より作品の本質やアーティストの内面までも細部にわたってみることが出来るようになったのです。
弱い自分だからこそ、人の繊細な面を理解してあげられる
そう思えたのです。そしてそう思えてからは
吃音はコンプレックスから個性に昇華したのです
かつてスキャットマンジョンが吃音を歌唱法に昇華したように
マリリンモンローが吃音をごまかすため独特な話し方に昇華したように
僕の中で、吃音がまえほど邪魔な存在ではなくなったんです
もちろんいまでも電話対応や、接客の際に言葉が詰まってしまったりだとかはあります
すこしパニック発作なのかもしれないですい、人の密集した場所には容易に近づけません
ただそれでも、自分の生きる方向性。羅針盤の針がどこを指しているのかが分かった気がします
自分がコンプレックスを強く持ち、助けてほしいと心から願っていたから
僕は、いま困っている人や、助けが必要な人に何かしてあげられる人になりたいのです
朝活はぼくの精神的健康の回復におおいに役立ちました。
なので拙くはありますが、すこしでもみなさんに有益で役に立てればと思い
ブログをはじめてみたのです。
いま自分を見失っている人
いま悩んでいる人
生きようか、死のうか
自分の生産価値は? 生きている理由は?
そうやって自問自答すると、あまり、良い回答は帰ってこないですよね
よくわかります。
そんな時は、いま自分が抱えているものや悩んでいることが
本当に自分にとって足かせとなっているかを問うのもありですね
僕にとって吃音は、長い間、「普通に会話する」ことを阻害する害そのものでしたが
向き合い方を変えると、自分自身の個性として、人格形成に役に立ってくれたとも今では思えます。
人は他人と比較して自分の価値を定めてしまいます
でも、実は自分の価値は自分の個性と仲良くなれた時にこそ発揮されるものです
一般的な価値なんて、ここ百年のうちに起こった人類の資本主義思想が根付かせた
経済に対する生産価値とか、経済に還元される人的資本とか、くだらないスケールでの話です。
本当の価値は、人の内面に生まれます。現実で疲弊し摩耗した自分と、内側で本当はこう生きたいと叫ぶ自分との冷静な対話によって生み出されるものです。
最初はつらいです。最後でもつらいかもしれません。
それでも、本当の自分と今までとはちがった角度で向き合ってみると
現実世界での生き方もすこしでも楽になるかもしれませんね(=^・^=)
それでは長くなりましたが、おやすみなさい
みなさんが安心して生きることを願っています
ばいばい!

